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富江弘幸(ビアライター)

気の持ちようで全てが変わる

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仲間がほしい私です。

 

多忙だということを言い訳に(実際に多忙なのです)、今月はまだこれで2記事目なわけですが、10分程度で何でもいいから書いたほうがいいんじゃないかという思いに至って、いま書いています。

 

ちなみに、こう思ったのは5回目くらいだと思います。

 

少なく見積もって。

 

さて。今日は帰宅途中に思ったことを書きたいと思います。

 

墓場の間を通っても怖くなくなった

墓場の話。

 

実は、自宅から駅まで行く途中、墓場と墓場の間の道を通るのです。そこを通らなくても駅には行けるのですが、曲がる回数を最小限に止めようと思うと、墓場の間を通ることになります。

 

そこで、ふと思ったこと。

 

昔(大人になっても)は墓場が怖かったし、わざわざ夜に墓場を通って帰ろうなんて思っていなかった。でも、今は怖くない。普通の道と同じように通っている。

 

これはなぜかというと、自分の子どもが、その墓を管理している寺の幼稚園に通い始めたから、だと思うのです。

 

仲間だと思うと怖くない

人間の意識というものは不思議なもので、自分の仲間だと思うと怖くなくなるようなんです(自分の感覚調べ)。

 

それまで、墓は他人でした。そして、墓から連想されるものに「おばけ」がありますが、明らかにおばけは他人であり、多くの場合は「敵」と認識されます。

 

ですが、自分の中では下記のような論理で「墓=仲間」の図式がいつの間にかできあがっていたのです。

  • 子どもが通っている幼稚園は信用できる。
  • 幼稚園は寺が管理している。
  • その寺は隣にある墓場も管理している。

 よって、墓も檀家さんも(場合によってはおばけも)信用できる。

 

ということなんですね。信用できるし、ある意味で寺を中心とした「仲間」とも言えるかもしれません(またはブラザーと言ってもいいかもしれません)。

 

なので、もしかしたら他の墓場に行ったらちょっと怖いかもしれませんが、特にためそうとは思っていませんのでわかりません。

 

気の持ちようで全てが変わる

何が言いたいかというと、人間の意識というのは不思議なもので、自分が相手に対して仲間だと思うか敵だと思うかで、自分の感情も左右されるのではないか、ということ。

 

もっと簡潔に言うと、全ては気の持ちようなのではないか、ってことです。

 

ネガティブな私ではありますが、40年以上生きていると、こうやって多少ポジティブにも考えられるようになってきました。時の流れというのはすごいものですな。

 

冒頭に書いたように、ここ最近はかなり多忙で精神的にもやられていたのですが、帰宅途中にこういうことを考えられるということは、多少は気持ちの中に考えるスペースができてきたのではないかなと。

 

まだまだ多忙は多忙なんですがね。

 

あ、ここまで15分もかけてしまった。

 

私からは以上です。本日はありがとうございました。

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